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詩という生活・オオカミ編集室のブログ

光冨幾耶の文芸雑記・雑感、文芸雑誌「オオカミ」の告知・情報ページです。

雑記。本日は横浜詩人会総会。及び自作の解説。

万年風邪ぽいみつとみでありますが、本日は横浜詩人会総会だった。カメラマン役で参加。佐相憲一会長のここ数年は大変フレンドリーな詩を楽しむ会となった。会員も増えている。わたしもそれなりにあいさつをしていた。


さて、前に自作の「明るい砂場にて」という作品を「オオカミ」とこのブログに掲載したが、一部読者としては気になる点もあるようで、それはそれで有り難い。自作の詩の解説は本来避けているのだが、今回は3点だけ触れたい。

1、話者はだれか? 作者である。子どものころのわたしの実体験で、ほとんどそのまま記憶に従い書いた。

2、暗い砂場なのになぜ「明るい砂場」なのか? いじめっ子(暴行者)たちは嫌がらせをして声をあげて喜んでいるのだから、彼らからすると、「明るい砂場」なのだろう。(3人がかりで砂山を作るより、一人で作る砂山のほうが早く高かったので、腹が立ったのであろう。それに相手は一人だから悪さをしても仕返しされる心配もない)わたしにとっては、雲があるだけで、その上には太陽があるのだし、暗い砂場でも「明るい砂場」なのだ。なぜなら、作品に書かれていないので読者は知る必要はないし書いても仕方が無いが、わたしの最初の友だちは野良犬のシロであり、この子と遊んだのが砂場だったのだから。悲しくても孤独でも、わたしにとっては「明るい砂場」なのだ。もちろんいじめる側への皮肉でもあり、悲壮な自分に対する皮肉(自虐)でもあり。(わたしの最初の友だちはひとの子ではなく、ワンちゃんだった。いまでも散歩すると、ほかの飼い主の犬にもわたしは良く好かれる)

3、「ひとの子」と呼ぶ話者はどのような存在か? ひとの子であり、神の子である。それはいじめっ子の「ひとの子」も同じだ。ひとの子は神の子でもある。だが、彼らはわたしを「ひとの子」ではなく、「獣の子」あるいは「欲求不満解消機」として物扱いした。つまり、本来は人の子は神の子であるのに、話者だけ、「ひとの子」として扱われなかった。その悲しみやつらさや苦しみを、俯瞰の視点で見ていじめっ子を「ひとの子」として、つらい目にあっている自分を見ていたのである。あまりにつらいので、体と心が分離したかのように。
(人からエゴを取り去って、神聖さを取り戻せば神に等しくなる)

4、おまけ。本来はではそうであるのなら、そのように読めるように書けというところだろうが、それはひとそれぞれの読解によるので、どこまで説明ではなく書くのかというのは、小説ではないし、詩の永遠のテーマのように、試み続けるのだろうと思う。この詩は、いじめる側といじめられる側と傍観側・気づかぬ者側(結果的に仕方が無いとはいえ、いじめを容認してしまう側・スルーしてしまう側)と慰める振りをする普段はいじめる側の4者に、どの立場にも逃れられることができない(どれかになってしまう)という点が、味噌である。

ということを書いても仕方ないので、普段は書かない。今回は、余計なことを書いた。容赦。自作の解説はつまらない。



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