雑感。地上の生活について。
新聞に書く文化時評の本読みをしているのだが、休憩。
さいきん、思うのだが、あるいは子供のころからだが、地上の生活というのは、どうもしっくりいかない。なぜかなということだが。
そもそも物質世界だから、ということもある。この地上は、生物は生きていくためにほかの生き物を食べないといけない。食べられるほうは生きたいわけで、悲しかったり、苦しかったり、痛みがあったりする。つまりこの地上の世界は、すでに残酷な悲劇が前提である。喜びもあるが、悲しみもある。それも貴重な体験ということと、利己と利他の愛を学ぶということでもあるのだろう。
意識体の世界では、そういう残酷な悲劇は一部を除いてないだろうから。
生死とまでいかなくても、差別や格差や暴力などが見える形と見えない形とでどこにでもある。
つぎにお金が必要な社会となっている。お金が必要なので、働かないといけないひとは、生活のため、生きるためにお金のために不本意な仕事や選択をしないといけないこともでてくる。極端のことを言えば、自分が生きるために、自ら、あるいは他者から命令されて、人を殺し、他国を侵略して、利益を得たり、したくはないのだが、それに関与することを強制させられる。従わなければ、死が与えられることもある。
お金はあってもよいが、それがなくても生きていける社会システムになれば、不本意な人生の選択の割合が減るのではないか。意にそわないことはしなくてもよい、自由が確保される可能性が広がる。
社会のシステムは政治が作るとして、政治体制は理想と反し、民主主義はポピュリズムに陥るし、共産主義は一部エリート独裁となる。ともに上に立つ権力者とその統治システムが賢明か我欲かで国民なり国は悲劇の円環を成していく。
物質を超えて、半物質になれば、意識を凝縮すれば物資化でき、意識の波動を上げるなどすれば、意識体つまり純粋なエネルギー体になることもできる。そうすれば、時空を超えることも、変身・変化も可能だ。
そういう風に次元上昇できれば、不老不死も可能で、肉体的死というものはない。病気や怪我も克服できる。自ら必要に応じて再生できるのだから。
それができるのであれば、この地球という惑星での人生も豊かな可能性が出てくるが、もしいまと同じように延々と悲劇が続くのであれば、わたしのような個性は、この生で輪廻転生は終わりとして、意識体の世界で永遠に生活するか、意識体あるいは肉体を持ってほかの惑星に移住するかということになる。というか、もう、この地上の生活で、輪廻転生とか、生まれ変わるとかしたいという気がしない。物心ついたときから、半世紀以上生きている今でも、理想的な世界とは言えず、おそらくは、現在は、何度かあった文明・人類絶滅の危機、ターニングポイントにある。つまりわたしはそこにいるだけでも、規定の範囲内に身を縮め、個性を隠し、息をひそめ、声をひそめ、しかし求められたことに関しては、効果を得られるよう発現・行動していかないといけない。実に息苦しい。いまでも続くコロナ禍のマスク生活のようだ。
わたしの人生は残り寿命は三十年ほどと想定できるので、この世界がどこに向かうのか、観察して、一部は記録していくのだろうなと、それがわたしにできることなのかなと考えている。
という一人雑感。
明日は、時評の仕上げというかまだ下書きを書いていない。午後は居合の稽古の予定。
依頼のT誌のDTP制作進行中。N氏の電子版詩集の制作企画進行中。
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